遅ればせながら最近になって映画版の「ビリギャル」を見ました。
原作の本を読んだこともなかったのですが、話題になったことは知っていました。
退職して、ある程度フリーな時間を持てるようになり、子育ての合間にアマゾンプライムで次に見るビデオを探していた時に「そういえばこんな本が話題になったな」と思って見てみたわけです。
正直、大して期待せず見始めたのですが、いい意味で裏切られて結構楽しめました。
エンターテイメントとして気楽に見るには良かったと思います。
その一方で、見終わってから、「やっぱり日本はいつまで経っても変わらないなー」という、なんともがっかりな気分にさせられました。
偏差値の高い大学に入れば全てオッケー?
この話のどこががっかりしたかというと、「慶応大学に入りたい」というだけの動機で勉強を始め、「慶応に合格できた。全てがうまくいった」となり、そこで終わってしまっていることです。
この主人公は慶応に入れれば何でもいいとばかりに、文学部と総合政策学部の二つの学部を受験しています。
日本では多くの場合、「どれだけ高い偏差値の大学を卒業したのか」ばかりが重要視されます。
時には、中途退学していても偏差値の高い大学に入学していたというだけで評価されたりします。
そして、なぜ文学部なのか、なぜ総合政策学部なのかということはほとんど問題視されません。
ビリギャルは文学を学びたかったわけでもないし、政策学を学びたかったわけでもないでしょう。
さらに言うならば、そこで学んだ知識を将来の職業に生かしたいなどという気は全くなし。
「慶応大学に入ったら勝ち!」というだけ。
「こんな考えで入学して入学後に本当に勉強をする気になるのかな?」と思っていたのですが、以下のビリギャルのインタビューで語られている話を読んで「やっぱりね」という気持ちにさせられました。
慶応大に進学した“ビリギャル” その後の物語|ライフコラム|NIKKEI STYLE
大学生活については、「受験で学びの面白さに目覚め、大学でも一生懸命勉強した」という、できすぎの物語にはならなかった。「単位はぎりぎりで、留年せずに何とか4年で卒業した感じです」と笑う。ゼミにも入らず卒論もなく、後に恩師と呼べる先生に出会ったわけでもない。専攻を決め、深くその道を追究したこともない。
その代わり、さやかさんにとっての学びは、「いろんな人に会い、そこから様々な経験をしたこと。授業よりも、それで自分がもっと成長できるのが魅力だったので」。生活の中心となったのはサークル活動。1922年設立の伝統ある広告学研究会に所属した。ミス慶応コンテストを主催する、学生サークルの草分けだ。
フリーペーパーを発行したり、湘南の葉山で海の家の運営をしたり、ミスコンの裏方をしたり。それこそ、名古屋にとどまっていては体験できなかったことに関わり、会えなかったような「キラキラした人」たちと交わった。
こうなるのも当然です。
大学で勉強したいとか、学んだ分野で仕事をしたいと思って大学に行ったわけではないのですから。
サークル活動などを通して色々な人と出会ったりするのは悪いことではないですし、大学をどのように過ごすかはもちろん個々の自由です。
しかし、日本の多くの大学生がこのような気持ちで何かを学ぶ気もなく大学に入り、「サークル活動を頑張りました」的な生活を送るのはどうかと思います。
もちろん、きちんと何かの専門分野を学びたいと思って真剣に大学に通う人もたくさんいるのは知っています。
大学というのは仮にも学びの最高学府なわけです。
大学の本来の存在目的は特定の分野をさらに深く学ぶためにある場所なのですから、「真剣に学ぼうと思って大学に行く人もたくさんいます」ではなく、すべての大学生がそういう意思で行くべきでしょう。
実は、正直に言ってしまうと、私自身も日本の大学に入ったときは同じでした。
「みんなが行くから行っておこう」という程度の考えで某大学の経済学部に入りましたが、実際のところ経済学になど何の興味もありませんでした。
そして、卒業してからソフトウェアを開発する仕事に就いたわけですが、経済学など全く関係のない職業なので大学で学んだ知識を使うことも一切ありませんでした。
今となっては何を学んだのかほとんど何も覚えていません。
一体、「4年間で学んだことはなんだったのか」という感じです(笑)
在学中に頑張ったことは何ですか?
私がおかしいと思うのは、日本の大学から社会へ繋がるシステムです。
「偏差値が少しでも高い大学であれば学部など何でもいい」と思う学生が多いのは、「良い大学卒の学生であれば学部などどこでも良い」と考えて選考する会社が多いからです。
入社面接では「大学で何を頑張りましたか?」などと質問されることがありますが、大学生であれば本来は頑張ったのは専門分野の研究や勉強であるべきではないですか。
それなのに、「色々な場所を旅しました」だの、「サークルの部長としてみんなを引っ張りました」だの、「バイトで色々な経験をしました」と答えるのですから何か間違っています。
そして、大学で勉強してきたことなどとは全く関係のない職業に就き、会社の研修でイチから別のことを学び直すわけです。
全くをもって無駄なことです。
やり直しをしにくい日本のシステム
高校生くらいの年齢で「将来何をしたいか」という目標を明確に持っている人は多くはないと思います。
私自身もそうでした。
しかし、一度高校や大学を出て就職してから「やっぱり違う分野で働きたい」と思った場合、また大学に入って学ぶというのは日本ではあまり良いイメージを持たれません。
日本の場合、下手をすると、「学歴ロンダリング」などと言われてなぜか批判の対象にまでなることがあります。
どんな道を進もうとそれぞれの勝手なのに本当に余計なお世話です。
「レールから外れることを怖れる日本人と、何度でもやり直すオーストラリア人」でも指摘した通り、日本人は個々に違う人生に対してもっと寛容になるべきです。
私がオーストラリアの大学に行っていたときに感じたのは、そこの学生たちは各自のコースの専門科目を必死に勉強し、そして「将来何をしたいか」がはっきりしていたということです。
オーストラリアの大学は他の欧米の大学と同じく、入るのと比べると卒業が異常なまでに難しいです。
本当にその分野のことを学びたいと思い、必死になって勉強をしなければまず卒業はできません。
実際、私の周りでもコースの途中で脱落していった学生をたくさん見ました。
なので、「とりあえず適当な大学の適当な学部に入っておくか」という学生がいないのです。
もしその程度の気持ちで入る学生がいたとしても卒業など到底望めないでしょうし、高い学費の無駄になるだけです。
就職する際も会社はその仕事に関連した学位を持っているかをほぼ確実にチェックしますし、そもそも関連の学位を持っていなければ応募しても相手にされないことがほとんどです。
偏差値が高い大学でも同じ
東洋経済オンラインの記事でもう一つ目に付いたものがあったので紹介しておきたいと思います。
「教育困難大学」で大暴れする不良学生の実態 | 学校・受験 | 東洋経済オンライン
この記事を読むと日本にはどれだけ質の低い大学生がいるかということが分かります。
こんな若者たちが「大学生」などと呼ばれているのですからお笑いです。
何かを学びたいわけでもない、就職もしたくない、「とりあえず大学に行っておけば『大学卒』という肩書が付くから行っておくか」程度の気持ちで入る学生がいて、そんな人間を受け入れて、勉強などしなくても卒業させてしまう大学があるからこういうことになるのです。
上の東洋経済オンラインの記事で取り上げられているのは偏差値の低い、「誰でも入れる大学」における問題として書かれていますが、さすがに慶応でここまで酷い学生はいないでしょうし卒業するはもっと難しいでしょうが、いずれにしてもビリギャルの話はある意味同じ問題を私たちに示しているのです。
今回の記事のまとめです。
- 学生は大学という最高学府において、「何々を学びたい」とか、「学んだことを仕事に生かしたい」という目的をきちんと持って学部を選ぶべき。
- 遊んでいても卒業できるような大学はいらない。大学は学ぶところなのだからきちんと学んだ者だけが卒業できる仕組みにするべき。
- 一度就職してからも、やりたいことが見つかったら大学で学び直し、そのような人間が柔軟に評価されて仕事ができるようにするべき。
- おかしな偏見をもって他人の人生の進路を批判するべきではない。