四季があるのは日本だけ?炎上した厚切りジェイソンの発言を海外在住者の目から考察してみる

私のサイトに訪問してくる方の中に、「厚切りジェイソン 嫌い」とか、「厚切りジェイソン 不快」というキーワードで検索して来る人が結構います。

そのキーワードで検索して辿り着く私の記事は「厚切りジェイソンは日本が嫌いなのか?~厚切りを批判する人達」なのですが、残念ながらその記事は厚切りジェイソンを批判する記事ではないので、そういう方達には申し訳なく思ってしまいます。

そして最近、上記の検索ワードでこのブログを訪れる人が増えたので何があったのかと思ったら、あるテレビ番組内での彼の発言が元でまた炎上したのが原因のようです。

概要は以下の記事を引用させてもらいながら説明しましょう。

厚切りジェイソンが“日本スゴい番組”の愛国ポルノを批判し炎上! でも「四季があるのは日本だけじゃない」は正論だ|LITERA/リテラ

 あの厚切りジェイソンが“日本スゴい番組”を批判して、炎上している。
発言が飛び出したのは、2月19日放送『ボクらの時代』(フジテレビ)でのこと。SHELLY、パトリック・ハーラン(パックン)との座談会のなかで、厚切りジェイソンは、外国人タレントとして仕事をするなかで感じるデメリットについて話を振られ、このように語った。
「本当はそんなにすごくない日本の文化に対して感動しないといけない場面とかが多い。こういう話していいかどうかわからないけれど、たとえば、日本がなんでスゴいかという番組のなかで、四季があるから、季節がいっぱいあるからという意味だったんですけど、アメリカにも季節は四つあるんだよね……。でも、と言ったら、もう全面カットだから『四季スゴいよねー』と言わないといけない。四季はどこでもあるよ!」

この厚切りジェイソンの発言に、ネトウヨたちがヒステリーを起こしているのだ。
〈いちいち五月蠅えな、ハエ外人。気に入らないなら国へ帰れ〉〈文句があるなら日本から出て行け〉〈厚切りジェイソンって日本の文化にあだこだ言ってるけどあだこだいうくらいなら国に帰れよって毎回思う〉

個人的には、このようにきちんと日本のことを見ておかしいと思ったことはおかしいと言うのは、日本のことが好きだからだと思うのですが・・・

嫌だったら他人に言われるまでもなく、とっくの昔に日本から出ていっているのではないでしょうか。

それにしてもネットでは相も変わらずレベルの低い批判が出ているようです。

私ももう結構長い年月オーストラリアに住んでいるわけですが、やはりオーストラリアの習慣やルールなどに文句を言ってしまうことがあります。

でも、それは少なくともオーストラリアを嫌っているからではありません。

そもそも、どの国のどの街にいたところで多かれ少なかれ不満に思ったりすることは出てくるのが自然です。

もし一つも不満が出てこない、全く欠点の無い楽園のような場所があるのならば是非そこに移住したいものです。

私は日本にもオーストラリアにもそれぞれ良いところがあると思いますし、逆に不満に思うこともあります。

でも、それぞれの長所、短所を考え抜いてより自分が住むのに良さそうな場所を選定しているわけです。

だからと言って住んでいる国の文句や批判を一切言ってはならないなどという決まりなどありませんし、いくつか批判しただけで、「嫌なら国に帰れ」と言うのは短絡的な思考もいいところです。

彼らの言い分であれば、「日本に一寸たりとも不満がある奴は日本に住むな」ということになりますね。

つまり、「嫌なら国に帰れ」 と言っている人達はきっと日本に全く不満が無いのでしょう。

あるのならとっくに日本を出ているでしょうからね。

「自分のいるところに不満が一つも無いなんて何ともラッキーな人達ではないか」と羨ましくなってしまいます(笑)

四季があるのは日本だけ?日本と海外の四季の違い

さて、レベルの低い批判についての話はほどほどにしておいて、本題である、「『四季がある日本はスゴイ』 のか?」についての話をしたいと思います。

まずは前出のLITERAの記事の別の部分を紹介します。

 だが、そこで紹介されている「日本スゴい」は、別に日本固有のものでも日本だけが優れているものでもなく、単に文化の違いだったり、無理やり自己慰撫のために「日本にしかない」ことにしている“愛国ポルノ”が大半なのだ。

その典型が、ジェイソンも言っていた「日本には四季がある」というやつだ。改めていうまでもないが、四季は赤道近くや北極圏、南極圏以外なら、ほぼどこにでもある。実際、この『ボクらの時代』でも、ジェイソンの発言を受けたSHELLYが「それ、外国の人はよく言うよね。(日本人は)四季を感動させたがるけど、世界中に四季はあるって」と同意していた。

ところが、こうした発言に、ネトウヨからは〈でも四季の変化を愛でる文化は日本だけ〉なんて唖然とするような反論が出てくる始末。

連中はヴィヴァルディの協奏曲「四季」を聴いたことがないのだろうか。西洋絵画には、ミレーをはじめ四季をモチーフにした絵画はたくさんあるし、日本でも使われる「青春・朱夏・白秋・玄冬」というのはもともと中国に由来するものだし、フィンランドのムーミンだって春の訪れをよろこび、短い夏を思いっきりたのしみ、秋になればスナフキンが南へと旅立ち、冬は冬眠したり雪とたわむれたり……季節の移ろいが描かれた文学や映画は世界中にいくらでもある。自分のプライドを満足させるために、どこの国にでもあるようなものを自分の国だけのようにがなり立てて、恥ずかしくないのか。

実はこの点に関しては私はどちらかと言うと「ネトウヨ」の人達に近い意見を持っています。

私が長期で滞在したことのある外国はニュージーランドとオーストラリアで、そのどちらも四季があります。

何十カ国と旅をしている人には、「たった2つの国の経験だけで語るな」と言われそうですが、あくまでも私の経験内での話をさせてもらいたいと思います。

オーストラリアは国土が広いので四季が無い地域もたくさんあるのですが、私が住んでいる地域には一応四季があります。

でもどうも日本の四季とは違うのです。

まず、四季があるとは言っても日本とは気候が違います。

例えば私が住んでいるところでは、真夏だと40度を超える日もありますが、非常に乾燥しているので日本の夏ほどジメジメしていませんし、また、昼間は暑くても朝晩は15度程度になることもザラです。

更に言うと、真夏でも日によって全然気温が異なり、昼でも20度を切ることもあります。

つまり、40度超えした次の日に20度まで下がるということも普通にあるのです。

そういうわけで、夏の間は平均してずっと暑い日が続き、冬は寒い日が続く日本の気候とは全然違うのです。

そしてそんな感じで暑いのか涼しいのか、夏なのかまだ春なのか分からない曖昧な夏を過ごしている間にいつの間にか秋の季節になってしまうのですが、秋もなんだかいつなのかよく分からないうちに冬になってしまいます。

何が言いたいかというと、日本の四季のほうがより感じやすい区切りがあり、それぞれの特徴が際立っているのです。

先に述べた通り、夏でも寒い日や時間がたくさんあるので日本のような衣替えなどという習慣がありません。

朝は寒いのでジャケットを着て外出し、夕方はTシャツ一枚で帰ってきたりするわけです。

冬は大体毎日寒いので冬は別なのですが、それ以外はだらだらと締まりがなく過ぎる感じです。

まあ、だからと言ってこの違いをもって日本の四季がスゴイとは言いません。

単に気候が違うだけですし、同じような気候の場所はきっと日本の他にもあるでしょう。

日本人の四季に対する感覚はやはり違う

そして私が感じるもう一つのより重要な違いは、上のLITERAの引用中に書かれている「ネトウヨ」が言う、「でも四季の変化を愛でる文化は日本だけ」の部分です。

これが「日本だけ」なのかどうかは置いておくとして、少なくとも私が行った国の中では日本人のように四季の変化をより深く堪能している国民はいなかったと感じます。

LITERAの記事の筆者は、「西洋にも四季をモチーフにした絵画がある」「ムーミンだって夏を楽しんで冬に雪とたわむれて冬眠する」と言っていますが、そういう表面的な話ではないのです。

この筆者は、「外国にも四季があり、それを楽しんでいる人達がいる」という知識はあるものの、今まで実際に何年も海外に滞在したことは無いのではないかと思います。

もし数年以上同じ国に滞在して日本との違いを体験していたら、きっと上記のような発言は出てこないはずです。

オーストラリア人だって夏はビーチに行ったりバーベキューをしたりして夏を楽しみます。

でも、それは単に「暑いから海水浴でもするか」とか、「天気が良いから外でバーベキューでもするか」という程度の行動に過ぎないのです。

LITERAの記事の筆者の例で言うと、ムーミンが雪が降ってきたら雪で遊んで、寒いから冬眠するということです。

それでは、日本にいる日本人は何が違うのか?

例えば日本人は秋にはお月見をして楽しみます。

平安時代の頃は月を直接見ずに盃や水面に映して楽しみ、また歌を詠んだそうです。

元旦は静まり返った街に除夜の鐘が響き、心を新たにします。

冬に雪を見ながら露天風呂に浸かるのが大好きな日本人はたくさんいます。

春は開花予報に一喜一憂します。

残念ながら現代の日本では無くなりつつある習慣もありますが、それでも私が感じることは、外国の文化圏で過ごす四季にはこのような風情がほとんど感じられないということです。

外国では単に、暑い夏があり、寒い冬があり、適度な気温の春と秋がその間にあるというのに過ぎないのです。

では、「風情って何?」「オーストラリア人が夏にバーベキューをするのと日本人が春に花見をしながら酒を飲むのと何が違うの?」と言われると私も上手く説明できません。

ただ、日本人の花見の場合、酒を楽しんだり、桜の美しさを楽しむだけでなく、その散りゆくさまを見て儚さも感じます。

外国人はこのあたりの心の深いところで感じられるものが日本人とは違うのかもしれません。

いずれにしても、私にとってはオーストラリアの四季と日本の四季の感覚は何かが決定的に違うのです。

オーストラリアにも桜はありますが、それを鑑賞する彼らの姿勢は日本人とは違う感じがします。

日本と同じ四季があり、日本と同じ四季折々の行事があり、それを堪能できるのはやはり日本だけなのです。

日本人に理解できて外国人にできないこと

ここでもう一つ面白い記事を紹介したいと思います。

なぜ日本人には虫の「声」が聞こえ、外国人には聞こえないのか? – まぐまぐニュース!

タイトルを見ただけだと、「外国人には虫の音が聞こえない」と勘違いしてしまいそうですが、そうではありません。

日本人は虫の音を「声」として聞き、外国人はそれを雑音などと同様の「音」として聞いているという話です。

一部を引用しますが、とても興味深い記事なのでもし気が向いたらぜひ読んでみてください。

ところが、虫の音をどちらの脳で聴くかという点で違いが見つかった。西洋人は虫の音を機械音や雑音と同様に音楽脳で処理するのに対し、日本人は言語脳で受けとめる、ということが、角田教授の実験であきらかになった。日本人は虫の音を「虫の声」として聞いているということになる。

~(中略)~

このような特徴は、世界でも日本人とポリネシア人だけに見られ、中国人や韓国人も西洋型を示すという。さらに興味深いことは、日本人でも外国語を母国語として育てられると西洋型となり、外国人でも日本語を母国語として育つと日本人型になってしまう、というのである。脳の物理的構造というハードウェアの問題ではなく、幼児期にまず母国語としてどの言語を教わったのか、というソフトウェアの問題らしい。

~(中略)~

松虫や鈴虫など、さまざまな虫がさまざまな声で鳴いている。それらの声に「生きとし生けるもの」のさまざまな思いが知られる、というのである。人も虫もともに「生きとし生けるもの」として、等しく「声」や「思い」を持つという日本人の自然観がうかがわれる。虫の音も人の声と同様に言語脳で聞く、という日本人の特性は、この文化に見事に照応している。

~(中略)~

つまり日本人はいままでなんとなく情緒的であるというていた。(西欧人が)論理的であるのに対して、より情緒的であるといっていたのが、構造的、機能的、あるいは文化といってもいいけれども、そういうところに対応する違いがあったということが、角田さんのご研究ではっきりしたわけです。

長い引用ですみません・・・良い記事なので本当は全文紹介したいくらいなのですが。

このように、「虫の音」一つとっても日本人と他の国の人とでは受け取り方が全く違うのです。

こうなってくると、「日本人が『音に対する捉え方』のみが外国人とは違う」と考えるほうが不自然な気がします。

つまり、その他の五感に関わる全ての面で日本人特有の捉え方があるのではないかと思うのです。

このような話は下手をすると冒頭の話題のように、「日本人はスゴイ」などという安易な勘違いに陥りかねませんが、これは、「外国人と比べて日本人がすごい」などと言う話ではなく、自然の事象に対する受け取り方が日本人と外国人とでは違うという「事実」があるということを言いたいわけです。

上のまぐまぐニュース!の記事では、虫の音の捉え方の違いは日本語が原因であると書かれていますが、私はそれに加えて、日本の四季やそれを元にした様々な習慣や伝統的な行事がそのような脳を育てているのではないかと思います。

厚切りジェイソンが「四季はどこの国にでもあるのだからそれを誇るのはおかしい」と言い、「ネトウヨ」は「日本人は四季を愛でることができる」と言うのは、ここら辺の文化的な背景の違いを元にした食い違いがあるのだと思います。

この、「虫の声」の記事に出ている研究結果通りだとすれば、いかに日本に長く滞在していて日本のことに詳しくて日本語が上手い厚切りジェイソンであっても母国語が英語である以上、四季や自然に対する日本人の捉え方は理解することはできないということになります。

理解できない人も受け入れる心が大事

冒頭のLITERAの記事によると、SHELLYが「それ、外国の人はよく言うよね。(日本人は)四季を感動させたがるけど、世界中に四季はあるって」と発言したらしいですが、日本の四季やそれに伴う事象や行事に心から感動出来るのは日本の文化の中で日本語で育った人だけなのかもしれません。

そう考えると、そういうことを外国人に理解させようとしたり、ましてや日本人と同じように感動させようとしたりしても無駄ということになります。

日本人向けのテレビ番組で、「四季がある日本はスゴイ」とか「四季を深いところで愛でることが出来る日本人はスゴイ」と言うのは勝手ですし、視聴者が「その通り」と思うことも勝手ですが、外国人がそのことを理解できずに批判をしたからと言ってムキになって反論したところで無意味なことなのだということです。

このように、「外国人には理解できないことなのだ」と分かれば、批判されたとしても腹も立たないでしょうし、「文句があるなら国に帰れ」などと一々怒る必要もなくなるでしょう。

結論としては、厚切りジェイソンも指摘している通り、日本の四季自体は外国人から見て特にスゴイというものではないということです。

しかし、私を含めて日本で育った多くの日本人にとっては日本の四季は「スゴイ」というよりも特別でかけがいのないものであるということです。

ただ、いずれにしても、日本人だって外国の文化や習慣などで理解できないことはたくさんあるでしょうから、その点ではお互い様なのではないでしょうか。

 

ところで、厚切りジェイソンを嫌いな人って結構いますよね。

嫌いな人はなぜ彼のことを嫌いなのでしょうか?彼は日本が嫌いだから日本をディスっているのでしょうか?

以下の記事ではその実像に迫ってみます。

厚切りジェイソンは嫌い?うざい?日本嫌い?厚切りを批判する人達の実像また厚切りジェイソンさんの発言が議論を呼んでいるようです。「厚切りさんは実際に日本に住んで不幸な人が多いと感じます?」と...

>>厚切りジェイソンは嫌い?うざい?日本嫌い?厚切りを批判する人達の実像

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