早いもので私がオーストラリアに来てから14年が経ちました。
この間、楽しいことも辛いこともたくさんありました。
日本人ではありませんが、私と同じように祖国から出て他の国に住んでいる人が「海外で生活することは辛いことがたくさんある」という記事を書いています。
楽しいことばかりじゃない「海外移住」の本当のところ | TABI LABO
上の記事を読んでみて、この筆者が言う通りだと思う箇所もあれば、必ずしもそう悲観するべきこともないという箇所もありました。
「将来、海外に住んでみたい」と思っている人が悲観的な話を聞いて必要以上に恐れを抱かないように、私なりの経験と意見を話したいと思います。
両親と離れて暮らして分かる大切なこと
多くの人にとって両親と遠く離れて暮らすというのは簡単なことではないと思います。
私もそうでした。
しかし私の両親は、私が日本のブラック会社でどれだけ大変な思いをして働いていたかということを知っていたので、私がオーストラリアで生活したいと伝えたときに面と向かって反対はしませんでした。
もちろん、「近くにいて欲しい」「せめて日本に居て欲しい」という気持ちはあったようです。
私はオーストラリアで生活をするようになってから、現地での生活がいかに日本の生活や仕事環境と比べて豊かで恵まれているかをよく両親に話しています。
彼らは今までに何回かオーストラリアに来てくれているのですが、どれだけ私が素晴らしい生活をしているいるかを実際に見て理解してくれているようです。
やはり今でも「できたら帰ってきて欲しい」と思うようですが、日本とオーストラリアの生活や仕事環境の差を見ると、「日本に帰ってきたほうがいい」とも言えないのが正直なところのようです。
そして、遠く離れて暮らすことは実はマイナス面だけではなく良い面もあることに気が付きました。
例えば私は週に一回は両親に電話で連絡を取るようになりました。
そして子供が生まれてからは孫を見せるためにさらに頻繁に連絡を取るようになりました。
(ネットが発達してくれたおかげで昔と比べるとものすごく低いコストで映像を含めた通話ができるうようになったのはとてもありがたいことです)
それはやはり遠く離れているからこそ、「今後どれだけの時間を一緒に過ごせるか分からないからせめて電話くらいはきちんとしよう」という思いからです。
人間、身近にあるものほどその大切さが見えなくなり、それを失って初めてそれがどれだけ大切だったということに気付くものです。
日本で両親と別の場所に住んでいる人達は一体、どれだけの人が定期的に親に連絡を取っているでしょうか?
「会おうと思えばいつでも会える」と思い、毎日の忙しい生活の中で親との時間は後回しになっていませんか?
私は遠く離れたことで逆に大切なものを認識できるようになったと思っています。
両親が亡くなった時に駆けつけるのが難しい?それよりも大事なこと
多くの人は誰かが危篤だと聞いたり、亡くなったと聞くと慌てて会社を休んで病院に行ったり葬儀に行きます。
なぜ普段は満足に連絡も取らないのに、大病になったり死んでしまってから会いに行くのでしょうか?
死んでしまったらもう話すことも出来ません。
危篤状態で意識が無くても話せません。
私は海外に住んでいることで両親の死に目に会えないかったり、葬儀に参加できなかったりする可能性が高いと思っています。
それはそれできっと悲しい思いをするでしょう。
だからこそ今、共に生きているこの時間を大切にしようと思います。
そして、死んでから会いに行くよりも遥かに大事なことは、生きている間にどれだけ話し、時間を共有し、親孝行をするかだと思います。
実際に会っている時間ももちろん大事ですが、電話などでの日頃の何気ない会話もとても大切なものですし、それも親孝行なのです。
孤独感はいずれ解消する
私は今でこそオーストラリアでたくさんの親しい友だちができましたが、来て数年の間は孤独を感じることが多々ありました。
クリスマスの時に何も予定がなく、同僚の家族の家に同情から呼ばれたことは私にもあります。
日本ではなぜかクリスマスは恋人と過ごすというのが常識になっていますが、オーストラリアではクリスマスはみんな家族と一緒に過ごします。
こちらの人にとっては一緒に過ごす家族も無く、クリスマスに一人で過ごすのはとても寂しいことのように映るようです。
また、別の年のクリスマスの時は友達に頼んでパーティーに付いて行ったこともありました。
しかし今は私自身、家族ができ、また休日を一緒に過ごす親しい友達もたくさんできましたので、孤独を感じることは一切なくなりました。
日本国内であっても、新しい土地に移ってから暫くは孤独を感じるのは当然のことです。
しかし、心配することはありません。
やがて一緒に過ごせる本当に親しい友達ができるでしょうし、もし結婚して家族ができればその孤独感は無くなっていくのですから。
仲の良かった友達を失う代わりにまた新しい友達ができる
私はオーストラリアに来た当時は日本の友達とよく連絡を取り合っていましたが、今では連絡を取るのは数えるほどの決まった友達とだけになってしまいました。
それらの友達ともせいぜい一年に数回メールをしたりするくらいですが、私が日本に一時帰国した時などに時間が合えばみんなで集まったりもします。
また、時々オーストラリアまで遊びに来てくれる友達もいます。
そういうときは色々な話題で昔に戻ったように盛り上がります。
普通に日本で暮らしていても、お互いに仕事や毎日の生活が忙しく会ったり連絡を取る機会がなかなか無いままいつの間にか疎遠になる友達はたくさんいます。
多くの人にとって一生の付き合いになるような友達というのは一人か二人いるかどうかではないかと思います。
新しい人と知り合い、多くの昔の友人とは疎遠になるのは海外に住んでいようと、日本に住んでいようと同じことです。
そもそも、全ての友達と連絡を取り、実際に会うのは時間的にもほぼ不可能でしょう。
先にも述べたとおり私はオーストラリアでたくさん新しい友だちができました。
これらの友達はオーストラリアに来なかったら会うこともなかった人達です。
このように、疎遠になってしまう人がいる一方で新しい出会いもあるのですから、悲観することなどないのです。
新しいものを得るために必要なこと
冒頭の記事の筆者は記事の最後で以下のように言っています。
もしあなたが頑張って、できるだけ彼らに会うようにしても、好意を取り戻すことができるのはその時だけ。一歩間違うと、関係はなくなっていきます。友だちを失うということは、あなた自身とあなたの思い出の一部を失うことになるのですから。
あなたの挑戦には、大きなメリットとともに、多くの犠牲がつきものだということも忘れてはいけません。
疎遠になる友達とはどこに住んでいようといずれはそうなる運命だったということです。
そして友達を失っても思い出は失われません。
友人と疎遠になることや思い出が無くなるのではないかと悲観的に考えず、新しい場所でまた気の合う新しい友達を探しましょう。
何か新しいことをしようとしたら、それまで持っていた何かを捨てなければなりません。
古いものも新しいものも全てを取るということはできないのです。
だから「挑戦には、大きなメリットとともに、多くの犠牲がつく」のは当然のことです。
新しいことに挑戦して古いものを捨てる覚悟ができる人だけが新しいものを手に入れることができるのです。