今回はいつもとは少し趣旨を変えて「日本のここは素晴らしい。オーストラリアは見習って欲しい」と思ったことを書いてみたいと思います。
道徳心が欠如しているオーストラリア人
この記事を書こうと思った直接のきっかけは以下のビデオを見たことです。
大まかな説明としては、このビデオの作者が社会実験(Social Experiment)として、盲目の人を演じて道行く人に「この5ドル紙幣をコインに崩してもらえませんか?」とお願いして5ドル紙幣と勘違いした振りをして50ドル紙幣を差し出して人々がどのような反応をするかを見るというものです。
ちなみにこのような社会実験のビデオは他にも色々とアップされていて面白いものが結構あるるので興味がある人は是非見てみてください。
さて、上のビデオの中では女性はみんな正直に「それは50ドルではなくて5ドル紙幣ですよ」と教えてあげていますが、男性は結構な数の人が黙って50ドル札を自分のものにしています。(このビデオで紹介されていない人も恐らくたくさんいると思うので実際に男性の何割くらいがこのようなことをしたのか、また女性でも同じようなことをした人がいたのかまではこのビデオからは分かりません)
私がとてもがっかりしたことは、このビデオの現場がオーストラリアだということです。
私の今までのオーストラリア人の印象は「弱者に対してはとても優しい」というものでした。
オーストラリアでは電車でお年寄りや体の不自由な人が乗ってくるとまず確実に誰かが席を譲りますし、道端で気分が悪そうにしている人がいると誰かがすぐに声をかけます。
私はオーストラリアに来てからこういう光景をたくさん見てきました。
もちろんこのビデオに出ているような卑怯な人間ばかりではないと思います。
しかしこんなに多くの人が社会的弱者である盲目の人に対してこのような酷いことをできるのが信じられませんでした。
もしかしたら周りに人の目がある場合は優しく振る舞い、人目に触れず悪事ができそうなときはこのようなずる賢いことをするのでしょうか?
私は同じ実験を日本でしたらどの程度の人が正直に教えてあげるのかとても興味があります。
そしてこのビデオに出てきた卑怯なオーストラリア人のようなことをする人はまずいないと信じています。
自分の周りは自分で綺麗にする
私の以前の記事(日本の教育は社畜を生産する洗脳教育)で日本の教育の悪いところを指摘しました。
しかし道徳教育は適度な分には良い影響を社会にもたらすと思っています。
例えば、日本人は学校に入ったらみんな自分達の教室や学校を自分達で掃除しなければなりません。
「自分達が使ったものは自分達で綺麗にする」
「自分達が使うものや場所は綺麗に保つ」
みんなこういったことを教えられてきたと思います。
しかしオーストラリアでは生徒は学校や教室の掃除などしません。
誰が掃除するかって?
学校と契約している清掃会社の人です。
だから子供は教室や学校を汚しても気にしません。
どうせ掃除をするのは清掃人ですし、汚くしても次の日には綺麗に掃除されているからです。
私はこちらで育った友達に「なぜゴミをそこら辺に捨てるの?」と聴いたことがあります。
返ってきた言葉は「俺は清掃人の仕事を作ってあげているんだ。もしみんなが汚さなかったら清掃人の仕事がなくなるだろ?」でした。
この言葉には全く呆れました。
ちなみに他の知り合いで先生をしているのですが、その人に
「生徒自身に掃除をさせるのは自分の周りや街を綺麗にするという道徳心を養うのにとても良いからオーストラリアでもそうしたらいいのでは?」
と言ったら
「そんなことをしたら児童虐待で親に訴えられて大変なことになる」
と言われて唖然としてしまいました。
子供に掃除をさせたら虐待って??
もう意味が分かりませんでした。
実際に、生徒に掃除をやらせた先生だか学校だかがあるらしいのですが、そうしたら学校に対して親が
「なぜうちの子供が掃除の『仕事』 をさせられないとならないのか?」
「お金を払って学校に行かせているのに子供にタダで清掃の仕事をさせるとは何事か」
と騒いだ事件もあるらしいです。
念のために言っておきますが、オーストラリアの私が住んでいる街もその他の街も実際は結構綺麗ですし、ゴミのポイ捨てをする人を日常的に見かけるということもありません。
街にはゴミ箱がたくさん設置されていますし、大抵の人はきちんとゴミ箱に捨てています。
また清掃業者が頻繁にゴミの処理や掃除を行っているのを見かけます。
それにしても日本で育った人からすると子供に掃除をさせることが虐待と言って非難されるなど想像もできない事だと思います。
電車の落書きにもウンザリ
もう一つ私がオーストラリアでとても残念に思う事は、こちらの電車の中や沿線沿いが落書きだらけだということです。
こちらの電車の沿線沿いの柵や建物や設備には所狭しと汚い絵や文字がスプレーで描かれています。
ちなみにこのような落書きの絵のことは”Graffiti”(グラフィティー)、文字のことを”Tagging”(タギング)と呼ばれています。
このような落書きをすることは違法になっていますし、スプレーを18歳以下の子供に売ることも罰金の対象になっています。
しかし、現実にはほとんど取り締まられていないというのが現状です。
このような絵のことを「芸術」などと言う人がいますが、私から見たらただの汚い落書きです。
その地域の雰囲気も悪くなりますし、地域の価値も下がります。
絵を描きたいのなら家でキャンパスにでも描けば良いでしょう。
大体、芸術と呼ぼうが何だろうが違法なものは違法です。
電車に対する落書きも日常茶飯事で、落書きされていない電車など一両もありません。
ガラスの窓にはコインや鋭いもので削って付けたTaggingだらけです。
落書きだらけの電車というと治安も悪そうですが、幸いなことに治安に関しては実際に電車に乗っていて悪いと思ったことは今のところありません。(収入が低い人達が住んでいるエリアに行く電車はあまり良くないそうですが。特に夜は。)
私には街の景観をわざわざ汚すこれらの行為が理解できません。
これに対して日本では誰も電車に落書きなどしません。
日本でもたまに落書きをされて電車が使えなくなったというニュースが出ますが、落書きされたことがニュースになるほど日本では落書きが稀だということです。
オーストラリアで落書きくらいでいちいち電車をキャンセルしていたら使える電車など一つも無くなってしまうでしょうし、当然の事ながら一々ニュースにもなりません。
これらは全て道徳心の欠如から来ているものです。
悪いことをすると罰が当たる
日本では悪いことをした人が痛い目にあったりすると「あの人は罰が当たった」と言います。
「因果応報」とも言いますね。
日本人は宗教や神を信じていないという人が多いですが、「悪いことをすると(神様がそれを見ていて)罰が当たる」という道徳心(この考えは神道から来ているようです)があるのはとても面白いことですし、これはやはり日本の教育によって育てられているものだと思います。
こういう道徳心があるからこそ、日本人は「落し物を拾っても自分の物にせずきちんと警察に届ける」とか例え誰も見ていなくても悪い事をしないという行動に繋がっているのです。
最初に紹介したビデオのような社会実験を日本でやったとしても嘘をつく人はまず居ないだろうと私が思のはこのためです。
ただし、道徳教育が行き過ぎるのも考えものです。
例えば、「他の人の迷惑にならないようにする」とか「自分を犠牲にしてでも他人を助ける」というようなことを美徳として教え過ぎると現在の日本のような社畜を生産するのに最適な教育になってしまいます。
だからと言って道徳教育が逆に無さすぎるとオーストラリアのような問題が出てくるようになってしまいます。
つまりバランスを取ることが重要だということです。
正直であったり自分の環境を綺麗にするという日本人の心は少なくとも世界でも誇れるものだと思うのです。
ただ、もしも道徳教育をすると必ず日本式かオーストラリア式の両極端に行ってしまうというのであれば、どちらを取るかと言われたら私ならオーストラリア式を取ります。
私は日本の社畜のようにはどう頑張ってもなれそうにありませんし、現在の日本のような「ルール」や「マナー」ばかりの息苦しい社会に住むのも無理だと思いますので。
追記(2016-05-24)
オーストラリアでもごく一部の少数の学校において教室の清掃などを生徒にやらせているところがあるようです。